訃報 エンドン・マームードさん

出典:『ウィキニュース』(ベータ版)
マレーシアの位置

【2005年10月22日】

マレーシアのアブドラ・バダウィ首相の妻、エンドン・マームードさんが、20日現地時間午前7時55分、プトラジャヤの首相公邸で亡くなった。エンドンさんは数年間乳ガンによる闘病生活を続けていた。64歳だった。

エンドンさんがアメリカ・ロサンゼルスでガンの治療を受けて帰国してから、18日後の死去となった。

AP通信=CNNによれば、エンドンさんには、アブドラ首相との間に娘1人、息子1人がいる。アブドラ首相とは今年9月に結婚40周年を迎えた直後だった。

マレーシア首相府では、公邸を開放し、市民が遺体と対面できるようにすると発表した。公邸の正面玄関は20日の午前11時から公開された。葬儀はイスラム教の伝統にしたがって行われた。エンドンさんの遺体は、プトラジャヤ・モスクで同日のアザール刻の祈祷の際、祈りをささげられ、その後プトラジャヤのイスラム火葬センターで荼毘に付された。

エンドンの臨終に際しては、アブドラ首相、首相の2人の息子、義理の息子、エンドンさんの孫たち、エンドンさんの母が付き添っていた。

エンドンさんの死は、死後ただちにマレーシア全土に伝えられ、衝撃を与えた。

報道によれば、アブドラ首相の状態は良好だが、訪れた友人と抱き合う際には時折嗚咽がもれたという。

反応

エンドンさんへの弔意を表すため、副首相と情報相を含む一部の閣僚は、公務の予定を取り消した。副首相により行われる予定だった、東アジア競技大会マレーシアチームのユニフォーム発表は延期された。行政府の高官らも、弔問のため首相公邸を訪れた。

なお、20日朝、与党・統一マレー国民会議青年部執行部のマット・マズラン氏と同乗者2名が、弔問にかけつけるため車で走行中、交通事故にあい死亡した。

20日午後には、フィリピンのグロリア・アロヨ大統領、シンガポールのリー・シェンロン首相、ブルネイのハッサナル・ボルキア国王(スルタン)、インドネシアのユスフ・カラ副首相、タイのスラキアート・サティラタイ副首相ら外国首脳が、その日行われる葬儀に参列するため、マレーシアに到着した。

数千人の人がお別れのため首相公邸を訪れた。棺の安置された部屋ではイスラム教の指導者たちによりコーランが暗誦された。

ラジオやテレビ放送は、番組予定を変更し、落ち着いた音楽やコーランの朗誦などを放送している。ムスリム系ラジオのディスクジョッキーは、聴取者に対し、エンドンさんにコーランの「開扉章」を捧げるよう勧めた。

22日の「ストレイト・タイムズ」紙は、英字紙3紙、中国語紙1紙を含む21日の各新聞での取り扱いを伝えている。各紙とも1面トップでエンドンさんの死を取り上げるとともに、エンドンさんに中心をおく新聞、首相夫妻に中心をおく新聞、家族に中心をおく新聞など、扱いに工夫をみせている。またいくつかの新聞では、10ページ前後の写真入りの特集を組んだ。

エンドンさんの横顔

アブドラ首相はつねづねエンドンさんを自分の「第一の支持者」と呼んでいたとAPは伝える。夫妻は仲のよい夫婦として知られており、互いの頬にキスするなど、公衆の面前で愛情を示しあうこともしばしばあった。

2004年2月にアブドラ首相の母が亡くなったとき、エンドンさんは当時アメリカで治療を受けていた。のちにエンドンさんが記者に語ったところによると、アブドラ首相はエンドンさんに電話をかけ、「私は母を喪った。あなたまで喪いたくない」といった。

エンドンさんは謙遜で気さくな人柄により尊敬されていた。首相夫人と呼ばれるより愛称で呼ばれることを好み、「カク・エンドン」(エンドン姉さん)の愛称で広く親しまれていた。

エンドンさんは2002年に検査を受け、ガンであることを知った。エンドンさんの双子の姉妹であるノライニさんがガンと診断された後、受けた検査だった。ノライニさんは2003年に亡くなっている。

エンドンさんは乳房を切除し、定期的にアメリカ合衆国に治療のために通っていた。エンドンさんは今年7月に5回の化学療法をロサンゼルスで受け、今月1日にマレーシアに帰国していた。

マレーシア国立大学のアグス・ユースフ氏は、私生活での打撃がアブドラ首相の公務に影響を与えることはないと語った。「アブドラ首相は精神的にエンドンさんの死に対する用意ができていた」「アブドラ首相は通常の状態に戻り、いつもの熱意をもって首相としての公務に復帰するだろう」とアグス氏は語った。

エンドンさんはアブドラ首相と1960年代に公共サービス省の同僚として知り合い、1965年に結婚した。エンドンさんは、1976年に退職した後、おもに社会福祉活動に従事してきた。北朝鮮、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボの子どもたちを援助する活動にもかかわった。またマレーシアの芸術や伝統工芸振興とも深くかかわり、芸術家支援団体などの資金集めなどにも活躍した。

生前、エンドンさんは政治には関心がないことを強調していた。またアブドラ首相が議員となり、多忙となった1979年以後、ゆっくりとその状況になじまなければならなかったと語っていた。

エンドンさんはあるインタビューで「夫の仕事を助け、理解しなければならなかったのです」と語っていた。「私はいつも夫を褒めています。離れているときには夫はいつも電話をくれ、私たちはお互いに向かって愛していると始終口にしています」。

エンドンさんは乳がん検診プログラムにも深くかかわっていた。乳がんはマレーシア女性の病気による死因の第1位となっている。

エンドンさんは、生前、自分の死を悲しまないでほしいと語っていた。また最高の治療を受けられて自分は運がよいとも語っていた。

英語版の翻訳に基づきます。

出典