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訃報 長嶋茂雄氏 - 読売巨人軍終身名誉監督 永久欠番・背番号3番

出典:『ウィキニュース』(ベータ版)
1963年の公式戦での長嶋茂雄氏(右は王貞治氏)
2021年、文化勲章受章時の長嶋茂雄氏
2017年6月、明治神宮野球場来賓席を訪れた晩年の長嶋茂雄氏
2013年5月、国民栄誉賞表彰式に参列するために東京ドームを訪れた長嶋茂雄氏、安倍晋三首相(当時)、松井秀喜氏(前列右から)、衣笠祥雄氏、王貞治氏(後列左2人目から)

【2025年6月4日】

日本プロ野球読売巨人軍の選手、監督として活躍し、晩年は終身名誉監督として球団に残り続けた、長嶋茂雄氏が6月3日午前6時39分、肺炎のため、東京都内の病院で亡くなった。89歳だった[1]

長嶋氏は千葉県出身。佐倉一高から立教大学に進学、東京六大学野球リーグで1957年、当時の通算最多ホームラン記録である8本を達成し[1]、1958年に巨人軍入団。特に大試合では勝負強さで的確なバッティングと華麗な守備を披露し、プロ野球を国民的なスポーツ文化に成長させたことから「ミスタープロ野球」の愛称で知られた[2]

入団初年の1958年は打率3割5分、ホームラン29本、打点92をマークし、新人王を受賞、あくる1959年には天覧試合で、大阪タイガース村山実投手からサヨナラホームランを放つ[3]。その後も王貞治氏とともに「ON砲」で、巨人軍の9連覇の中心をなしたが、1974年に引退、その引退試合のスピーチでの「我が巨人軍は永久に不滅です」は当時の流行語にまでなり、現役時代の背番号3番は永久欠番に指定された[3]。生涯成績は17年間2186試合9201打席8094打数2471安打1522打点444ホームラン、打率3割5厘[4]。現役時代の獲得タイトルは、最優秀選手5回、首位打者6回、ホームラン王2回、打点王5回など数多く受賞している[2]

この引退後、1975年より巨人軍監督に就任、1980年までと1993年から2001年までの通算2回監督を経験し、リーグ優勝に5回、日本一は2回輝き、その中でも2000年日本シリーズでは、王氏が監督を務めていた福岡ダイエーホークスとの「ON決戦」として注目された[3]。また特に、奇跡的な大逆転優勝を決めたときは「メークドラマ」「メークミラクル」という言葉をも生み出した[5]

監督退任後は、巨人軍が設けた終身名誉監督のポストに就任し[3]、2003年、アテネ五輪の出場権がかかったアジア予選に、日本代表監督として指揮を執り、アテネ五輪進出を決めるが、その後2004年3月に脳こうそくで倒れ、リハビリに専念するため五輪の指揮を断念。それでも「もう一度走りたい」と目標を掲げ、回復に努めてきた[1]。2013年には、巨人軍の4番打者として育成した松井秀喜氏とともに国民栄誉賞、2021年にはプロ野球選手史上初の文化勲章を受章した[5]

長男・一茂氏「野球の星に帰りました」

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茂雄氏の長男で、元プロ野球選手、現在はタレントの一茂氏は、「長嶋茂雄は野球の星に帰りました…生前、グラウンドで残した沢山の情熱がこれからの日本プロ野球界の発展に少しでも役に立つことを父も願っていたことと思います。長い間、父長嶋茂雄にご声援を頂き本当にありがとうございました」とするコメントを残している[6]

国内外で長嶋氏を悼む声

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長嶋氏の死去に際し、国内外で多数の哀悼のコメントが次々と寄せられている。宮崎市キャンプを張る際、長嶋氏が選手時代からよく足を運んだという釜揚げうどん店の女将さん(75)は「来店時は気取ることなく私たちを笑わせてくれた。太陽のような人。ありがとうという気持ちしかない。ゆっくり休んで」と親戚のような付き合いだったという思い出を話し[7]、長嶋氏が生まれた佐倉市にある「長嶋茂雄記念岩名球場」には、「長嶋さんありがとう」の文字が浮かび、設置された記帳台を訪れた女性(78)は野球教室の講師として訪れた長嶋氏を見て「もうちょっと長生きしてほしかった。姿を見るだけで勇気をもらえた。他の選手が後を継ぎ、子どもたちに野球を教えてほしい」と述べた[7]

また、巨人軍のライバル・阪神タイガースの本拠地でもある大阪でも、京橋駅近くで新聞の号外が配られ、その紙面を手に取った男性(90代)は「惜しい人を亡くしたと思う。ちょうど、王さんと2人でやっていた時代を見ていたから、その姿が忘れられない。甲子園によく見に行っていたが守備がものすごく華麗で、派手ではあるが堅実だった。当時の花形だったし、あの時代に野球している人は、みんなまねしようとしていた。長いことご苦労さまでした」、また女性(60代)も「巨人の大きな星が消えたという感じで寂しい。子どものころ、巨人戦ばかり見ていたから長嶋さんのことが好きだった。プレーも華があったし、野球をしない私でも他の人とは違うと思うほどだった。時代の象徴で、国民栄誉賞も取ったしすごい人でした。ご苦労さまでした。ゆっくりお休みください」とねぎらった[8]

北海道でも、エスコンフィールドでこの日開幕したセ・パ交流戦北海道日本ハムファイターズ対阪神戦の試合を観戦したファンからも哀悼の意を示し、北海道日本ハムファンの女性(60代)は「なんでもないゴロなのに、ファインプレーをしたかのような球のさばきを見せて、スター性がある人だったと思います。長く野球界に貢献された人だと思います」、また阪神ファンの男性(30代)は「現役時代は直接知らないですが、昔の映像でよく出てきて印象に残っています。偉大な功績がある人が亡くなって悲しいです」、別の阪神ファンの男性(50代)も「ホームランでホームベースを踏み忘れるなど、印象に残ることが多い人だったと思います。野球界のレジェンドで、亡くなられて悲しいです」とそれぞれ述べた[9]

長嶋氏の訃報は国外でも大きく取り上げられ、アメリカニューヨーク・タイムズは電子版で「戦後日本のMr.ベースボール」とたたえ、「巨人軍入団の最初のシーズンからスターだった。1960年代初めには長嶋さんの才能のうわさは米国にも広まっていた」ことや、「シカゴ・ホワイトソックスブルックリン・ドジャースからオファーがあり、契約を結ぼうとして失敗した」というエピソードも記されており、「長嶋さんは来日した要人と親交を深め、容姿とカリスマ性で人々を魅了した。結婚するまで日本で最も魅力的な独身男性とみなされていた」としている[10]

またAP通信は「ミスタープロ野球として、現役時代は国内で最も著名な人物の一人」と紹介したほか、AFP通信も戦後の経済成長期に長嶋・王の両氏の活躍をモノクロテレビで見ていたと伝え、「自信に満ちた新しい日本の象徴だった」と長嶋氏を紹介した[10]台湾でも中央通信社とTVBSがそれぞれ「日本国民に愛された」「日本の野球の一時代が幕を閉じたことを意味する」などと紹介した[10]

ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手も、自らのSNSで、「心よりご冥福をお祈りいたします」と述べて、今年3月に行われた巨人軍とのプレシーズンゲームに出場した際のツーショット写真3枚を公開した。長嶋氏と大谷選手はこの3月、セコムのCMでも「夢の競演」を果たしていた[11]

情報源

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  1. 1.0 1.1 1.2 読売新聞より
  2. 2.0 2.1 NHKより
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 産経新聞より
  4. 日本野球機構個人別年度成績より
  5. 5.0 5.1 時事通信より
  6. 日テレnewsより
  7. 7.0 7.1 時事通信の別の記事より
  8. NHK大阪より
  9. NHK札幌より
  10. 10.0 10.1 10.2 読売新聞の別記事より
  11. スポーツ報知より