訃報 大野一雄氏 - 舞踏家
【2010年6月4日】
世界的な「BUTOH」ブームを巻き起こした舞踏家の大野一雄(おおの・かずお)氏が6月1日午後4寺38分(UTC+9)、呼吸不全のため神奈川県横浜市の病院で死去した。103歳だった[1][2][3]。
北海道函館市出身[1][3]。1929年に来日したスペインのダンサー・アルヘンティーナの公演に衝撃を受けて舞踏家を志し[1]、日本体育会体操学校(現:日本体育大学)卒業後に舞踊家の石井漠主催の舞踊研究所に参加[3]。横浜市内の学校で体育教師を務めながらモダンダンスを学んだ[2][3]。1938年に召集を受け[3]、第二次世界大戦中は中国などを転戦[2]。多くの死を目にしたことで、「死と再生」が後に重要なモチーフとなる[1]。
復員後の1949年に舞踏家として初公演を行った[1][2][3]。1954年頃、舞踏の創始者である土方巽氏と知り合い[3]、1950年代後半から土方氏とともに実験的な舞踏作品を発表[1]。白塗りの化粧、すり足など独特のスタイルをもつ舞踏を創出した[1][2]。土方氏の作品が「暗黒舞踏」と呼称されるのに対し、大野氏の作品は「魂の舞踏」と呼ばれた[2]。1977年にはアルヘンティーナを称える「ラ・アルヘンチーナ頌」を発表[1][3]。
1980年、フランス・ナンシー国際映画祭で「ラ・アルヘンチーナ頌」を海外初演[1][2]。欧米のダンスシーンに大きな衝撃をもたらした[1][3]。他の代表作に「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮」「花鳥風月」など[1]。
90歳を過ぎても海外公演を続け[1]、現役最年長のダンサーとして活動[4]。2000年に腰を痛めてから自力で立てなくなったものの、翌年には公演を再開[1]。2007年の100歳記念公園にも車椅子で出演した[1]。晩年はアルツハイマー症で闘病生活を送ったが、踊りに対する意欲は持ち続けた[2]。
主演映画作品に『O氏の肖像』など、著書に『大野一雄 稽古の言葉』などがある[4]。同じく舞踏家の大野慶人氏は次男[2][4]。
情報源 [編集]
本ニュースは「読売新聞」と「毎日新聞」、「朝日新聞」の以下の報道を情報源としている。
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 yomiDr. 『103歳の世界的舞踏家、大野一雄さん呼吸不全で死去』。読売新聞、2010年6月1日。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 毎日jp 『訃報:大野一雄さん103歳=国際的舞踏家』。毎日新聞社、2010年6月1日。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 asahi.com 『舞踏家、大野一雄さん死去 103歳 国内外にブーム(1/2ページ)』。朝日新聞社、2010年6月1日。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 asahi.com 『舞踏家、大野一雄さん死去 103歳 国内外にブーム(2/2ページ)』。朝日新聞社、2010年6月1日。
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